気仙沼市①

 東日本大震災から9年が経った。
 気仙沼市とはご縁があって、東日本大震災の起こる数年前から何度か訪ねて行っていた。
 国の中央防災会議が、東北地方、特に宮城県沖でマグニチュード7以上の地震が30年以内に起こる確率は99%と、2003年に発表していた。したがって、宮城県をはじめ、岩手県も来るべき「宮城県沖地震」に備えていた。私も気仙沼市が主催していた津波に対する備えの研究会に参加していた。
 ちなみに、私が1976年に大学の助手になって最初に被害調査に行ったのが、1978年の宮城県沖地震で、仙台市を中心に大きな被害があった。この地震によって電気、ガス、水道、電話など、いわゆるライフライン(生命線)と呼ばれる施設が大きな被害を受けて、日本でライフライン工学が発展するきっかけとなった地震である。三陸沖は、実に規則的に約30年に一回大きな地震が繰り返し起こっていた。1978年の地震は、2003年に中央防災会議が99%の確立で起こると予測した地震の一つ前の地震である。
 このような背景もあり、東日本大震災の半年前の2010年9月には気仙沼市をはじめ、大船渡市、“奇跡の一本松”で有名になった陸前高田市など、三陸沿岸の津波に対する準備の状況を見て回った。

 

 この地域は、明治の三陸地震津波(1896年、明治29年、犠牲者約22,000人)、昭和の三陸地震津波(1933年、昭和8年、犠牲者3,064人)、チリ地震津波(1960年、昭和35年、わが国の犠牲者139人)と、明治以降だけでもたびたび大規模な津波災害に襲われている。そしてこれらの惨禍を繰り返さないために、多くの場所に津波災害を記録した記念碑や石碑が建てられている。そこでその際、あわせてこれらの碑の写真も撮って回った。すでに藪の中にあってなかなか見つけにくいものもあったが、東北大学の先生の資料を片手に、おおよそ80か所の碑を撮影することができた。
 東日本大震災後にもこれらの碑がどうなったか、見て回った。驚いたことは、地震前に撮影した時は、それらは高台、街の中、山すそなどにあり、一部を除いて海は全く見えなかったが、震災後行ってみると、海がすぐ近くにあるところがほとんどであった。もちろん津波に流されて全く景色が変わっていたので、碑のあった場所を探すのも一苦労であった。約三分の一はそのまま残っており、三分の一は倒れたり、壊れたり、三分の一は流されて無くなっていた。印象的だったのは、残っていた石碑の碑文が、「これより低い所に家を建てるな」。その足元まで今回も津波が押し寄せていた。当然ながら、この石碑より低い所にあった家は流されるか、大きな被害を受けていた。(写真-1)

 

気仙沼市①

写真-1 陸前高田市にて。

低い所に家を建てるな、津波を聞いたら欲を捨てて逃げろ、などと書いてある。

東日本大震災では、この石碑のすぐ下まで津波が押し寄せていた。

 

 

 震災前に取った約80か所の碑の写真は非常に貴重なものとなった。これを防災教育に何とか活用できないかと思っている。

 

 震災後初めて気仙沼市を訪ずれたのはその年の6月のこと。研究会で一緒だった、市の防災危機管理課長(当時)をされていた佐藤健一さんに恐る恐る電話をかけた。実はそれまで迷惑をかけてはいけない、と思い、一切連絡していなかった。佐藤さんが健在かどうかも知らずに電話をかけたのである。携帯の向こうで元気な佐藤さんの声が聞こえた。「是非来てください。お話ししたいことがたくさんあります。」
 東北新幹線で一関へ。一関からレンタカーで気仙沼へ。沿道にはほとんど地震の被害は見られなかった。マグニチュード9の地震が襲ったのに、この被害の少なさは一体どうしてだろう、と不思議で仕方がなかった。気仙沼市街地に入ると見慣れた街並みがある。けっこう古い家も残っている。相変わらず不思議な思いで市役所に近づく。様相が一変した。市役所は少し高い所にあるが、そこより低い場所にある家はことごとく破壊されていた。津波が襲ったところと、そうでないところは、文字通り一線を画して、地獄と天国のようであった。
 昼前に市役所到着、その後佐藤さんは一日かけて市内の被災地を案内して下さった。がれきをかき分けて工事用の道が数本できていた。おびただしい数の船が市街地で傾いていた。気仙沼港は地盤が沈下し、漁港の岸壁、魚市場周辺は水面下になっていた。大量の大きなハエが飛んでいた。魚の腐ったような異様なにおいが満ちていた。
 市役所に戻り、資料を基に被害状況や対応策についてお話を聞いた。別れ際、佐藤さんの言葉が忘れられない。(写真-2)
「東北は、私たちが頑張って何とかします。西日本にもいずれ大きな地震がきますね。先生はこれと同じような悲劇が再び起こらないように、しっかりと準備の研究をして下さい。」
 佐藤さんのこの一言が、のちのJAXAの衛星データを山口に誘致することにつながった。

 

気仙沼市①

写真-2 気仙沼市防災危機管理課長(当時)の佐藤健一さんと

2011年6月気仙沼市役所で

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