釜石市①
東日本大震災、釜石市と言えばすぐに「釜石の奇跡」という言葉が多くの方には思い浮かぶだろう。
想定外の大きな津波にもかかわらず、子供たちは自らの判断で高台まで避難。
マスコミにもずいぶん取り上げられた。
その舞台の中心が釜石市の北部にある鵜住居(うのすまい)地区。
釜石東中学校の生徒が大きな揺れを感じてまず避難を始める。
すぐ隣の鵜住居小学校の児童たちに声をかける。
釜石東中学校は避難所に指定されていた。
だから近所の大人も避難してきた。
そしてかねて避難場所として決めていた高い場所にある「ございしょの里」を目指して一緒に走る(写真1)。
途中、保育園の園児と合流、「ございしょの里」に到着。
再び揺れがあり、斜面の石が落ちる。
子供たちは危険を感じてさらに高い場所にある介護福祉施設へ。
上級生は下級生の手を引いて、あるいは園児を背負って走る。
最終的にはさらに高い所にある石材店まで避難。
結果的に、残念ながら病気などで学校を休んでいた子供5人が亡くなったが、釜石市の小学生999人、中学生1,927人のほぼ全員が無事であった。
これが「釜石の奇跡」と呼ばれている。
釜石市は震災の8年前から津波に対する防災教育を熱心に行っていた。
この地方には「津波てんでんこ」という言い伝えがある。
“地震があったら、家族のことさえ気にせず、てんでんばらばらに、自分の命を守るために一人ですぐに避難せよ。一家全滅、共倒れになることを防げ”
というものである。
津波から子孫を残すための知恵である。
これを学校の先生たちは現代に活かすために、家族の話し合い、家族の信頼関係の構築に力を注いだ。
子供は親が学校に迎えに来てくれるのを待つのではなく、親は子供を学校に迎えに行くのではなく、
“子供はあとで親が必ず迎えに来てくれることを信じて、一人で逃げる。親は、子供は必ず逃げてくれると信じて、あとで迎えに行くために逃げる”
ことを徹底した。
そして、まず自分が逃げる、そうすると周りのみんなもついて逃げる、すなわち「率先避難」も徹底した。
これは子供が学校にいるときに限らずどこにいても。
子供たちは見事に学習したことを実践して生き残った。
一方釜石市の大人たちはと言うと、残念ながら約1300人が命を落とした。
子供たちが「釜石の奇跡」を起こした同じ鵜住居地区だけでも、小学校、中学校のある場所と川一本挟んで反対側にあるところで約600人の大人が亡くなった。
この鵜住居地区は決して防災意識が低い地区ではなかった。
避難訓練もよく行われていたという。
ではなぜ多くの大人が命を落としたのか。
その理由はいくつかある。
まず、避難したけれどもそこを想定を超える津波が襲った、ハザードマップでは津波による浸水がない場所なので避難しなかった、いったん避難したが貴重品を取りに家に戻った、まだ避難していない人を助けに
行った、などなどあるが、なんといっても津波の高さが想定をはるかに超えるものであったことに尽きる。
想定されていた津波は、1896年(明治29年)6月15日に起こった「明治三陸地震津波」である。
岩手県大船渡市三陸町の綾里(りょうり)湾で津波遡上高38.2mを記録、これは東日本大震災までの日本の津波遡上高の記録であった。
ちなみに東日本大震災による最高津波遡上高は宮城県女川町の無人島「笠貝島」での43.3mとされている(津波の痕跡高と遡上高の違い。東日本大震災は遡上高が40メートル以上の巨大津波、https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20170311-00068495/)。
最も象徴的なのが、「鵜住居地区防災センター」での出来事である。
2階建ての鉄筋コンクリート造りのこのセンターへ約200人が避難した。
もちろん津波ハザードマップでは浸水しないところに建っている。
そこへ2階建ての屋上を超える高さの津波が襲ってきた。
センターは津波によって大破した(写真2)。
屋上の片隅にある機械室の屋根に上った人々約40人がかろうじて死から免れることができた。
防災センターへ避難した約160人の人々がここで命を落とした。
「釜石の悲劇」と言われている。
小さな川一本を挟んで、一方では子供たちが「釜石の奇跡」を起こし、一方では大人たちが「釜石の悲劇」に見舞われた。