仙台空港周辺
3月11日前後は、“東日本大震災から〇〇年”と、報道各社で特集が組まれる。
今年は“東日本大震災から11年”、と言うことになる。
これら報道を目にしたり耳にしたりして、最近思うようになった。
地震の名前と震災の名前の区別をはっきりした方が良いのではないか、と。
多くではないが、東日本大震災を過去の出来事のように扱っている報道がだんだん増えているように感じたからである。
2011年3月11日に起こった地震は「東北地方太平洋沖地震」。
これは確かに11年前に起こった過去の出来事である。
しかしながらその地震によって引き起こされた災害、「東日本大震災」は過去のものではない。
今も続いている。
毎年1,2回東北地方を訪れて、復興の様子を見ている。
まだまだその途上で、全く元と同じ生活に戻ることは無理にしても、いまだにつらい生活を余儀なくされている方が多い。
この3月7~9日、仙台へ行くことがあり、9日は午後の飛行機までのおおよそ半日、レンタカーを借りて仙台空港周辺の岩沼市、名取市の“その後”の様子を見て回った。
ここは地震から3か月たった2011年6月、初めて被災地を訪れ、最初に見て回ったところである。
当時次男が仙台市長町(ながまち)に赴任していて、その次男に案内してもらったところである。
そこは、津波が松林を通り抜けて、次々に住宅を巻きこみ、田畑をどんどん進んでいった、テレビで何度も繰り返し放映された場所である。
地震の起こった当日、私は午前中新宿の高層ビルの一室で打ち合わせを行い、午後の最初の便で宇部へ帰った。
地震の起こった14時46分は、逆算すると瀬戸大橋上空を飛んでいたことになる。
何も知らずに研究に戻って仕事をしていた。
その時めったに電話をして来ない長男から電話がかかってきた。
東北地方が大変なことになっている。
次男から何か連絡があったか、というものであった。
それで初めて地震のことを知った。
その日は金曜日で、その後ずっと週末は家でテレビにくぎ付けになった。
そして上記の津波の進む映像はじめ、数々の衝撃的な映像を繰り返し、繰り返し見ることとなった。
次男の車で、まだいたるところに被災したビルや家屋を見ながら仙台市を南下、河口付近の流域が津波の遡上によって大きな被害を受けた名取川をさらに南下、仙台空港の方へ向かう。道の両側は壊れた社屋や倉庫、そしてがれきの山であった。唯一仙台空港ビルの姿が見えるだけで、その周辺はがれき以外何もなかった(写真-1)。
あの衝撃から11年。
がれき以外何もなかった場所には、今、避難場所となる小高い築山がいくつもつくられている。
そしてその周辺は震災記念公園として整備されている。
その一つが写真-2の「千年希望の丘 相野釜公園」である。
この千年というのは、千年後まで津波から住民の命を守ることができるように、また今回の出来事が言い伝えられるように、との思いが込められているとのことである。
コンクリートは長くて100年で朽ちてしまう。
だから百年も千年も寿命のある木を植えよう、たとえ枯れても生え変わって命をつなぐことができる木を植えよう、ということで、築山と築山の間には高く盛った連絡道がつくられ、その両側には木が植えられている(写真-3)。
すでにそれらの木々は私の背よりも高くなっている。