被災地をゆく
FMきららの冊子に『被災地を訪ねて』というタイトルで連載中です。
FMきららの冊子に『被災地を訪ねて』というタイトルで連載中です。
昨年度から宇部市は災害時に重要な情報を自動的に提供する「防災ラジオ」の運用を始めました。 この防災ラジオは、市が避難指示などの防災情報を出すときに、自動的に緊急放送に切り替わり、最大音量で防災情報が流れる専用のラジオです。 電源を切った状態でも、緊急放送の電波を受信すると自動的に電源が入り、防災情報が流れるという仕組みです。 この防災ラジオからは、次の情報が配信されます。・避難に関する情報(避難...
3月11日前後は、“東日本大震災から〇〇年”と、報道各社で特集が組まれる。 今年は“東日本大震災から11年”、と言うことになる。 これら報道を目にしたり耳にしたりして、最近思うようになった。 地震の名前と震災の名前の区別をはっきりした方が良いのではないか、と。 多くではないが、東日本大震災を過去の出来事のように扱っている報道がだんだん増えているように感じたからである。 2011年3月11日に起こ...
陸前高田市には「高田の松原」という有名な松原が海岸線にあった。 その松原は人工衛星からも明瞭に見ることができた。 その松原が津波で消滅した。 図-1はJAXAの地球観測衛星「だいち」が撮影した陸前高田市の、左は地震前、右は地震後の画像である。 緑が豊かなほど赤色が濃くなるように、また、海をはじめ水のある所は青色になるように特別な画像処理が施してある。 左の地震前の画像では「陸前高田」の「陸」の字...
陸前高田市には「高田の松原」という有名な松原が海岸線にあった。 松林の松の本数は数万本とも言われていた。 その松原は陸前高田市の市街地の大半と共に津波で消滅した。 大津波に襲われた松林であるが、奇跡的に一本の松の木が生き残った。 その松は被災した人々の希望の象徴として「奇跡の一本松」と言われた。 「奇跡の一本松」はしばらくは生きて、人々に希望と勇気を与え続けていた。 しかしながら多くの人々の努力...
東日本大震災、「釜石の奇跡」と言われる一方で、千人を超える市民が津波で亡くなるという「釜石の悲劇」があったということ。 その最も象徴的なのが、「鵜住居(うのすまい)地区防災センター」(以下防災センターと略す)での出来事。 2階建ての鉄筋コンクリート造りのこの防災センターへ約200人が避難した。 もちろん津波ハザードマップでは浸水しないところに建っていた。 そこへ2階建ての屋上を超える高さの津波が...
東日本大震災、釜石市と言えばすぐに「釜石の奇跡」という言葉が多くの方には思い浮かぶだろう。 想定外の大きな津波にもかかわらず、子供たちは自らの判断で高台まで避難。 マスコミにもずいぶん取り上げられた。 その舞台の中心が釜石市の北部にある鵜住居(うのすまい)地区。 釜石東中学校の生徒が大きな揺れを感じてまず避難を始める。 すぐ隣の鵜住居小学校の児童たちに声をかける。 釜石東中学校は避難所に指定され...
気仙沼市の震災当時の防災危機管理課長佐藤健一さんの一言が、のちにJAXAの衛星データを山口に誘致するきっかけになった、と前回の終わり書いたが、その話は別の機会に譲ることにして、引き続き気仙沼市でのお話を。 「釜石の軌跡」という言葉がよく言われた。釜石市ほぼ全部の小・中学生が津波から見事に逃げ切った。その背景には、「津波てんでんこ」を現代風に解釈して8年の長きにわたって熱心に行われた学校の防災教育...
東日本大震災から9年が経った。 気仙沼市とはご縁があって、東日本大震災の起こる数年前から何度か訪ねて行っていた。 国の中央防災会議が、東北地方、特に宮城県沖でマグニチュード7以上の地震が30年以内に起こる確率は99%と、2003年に発表していた。したがって、宮城県をはじめ、岩手県も来るべき「宮城県沖地震」に備えていた。私も気仙沼市が主催していた津波に対する備えの研究会に参加していた。 ちなみに、...