気仙沼市②

 気仙沼市の震災当時の防災危機管理課長佐藤健一さんの一言が、のちにJAXAの衛星データを山口に誘致するきっかけになった、と前回の終わり書いたが、その話は別の機会に譲ることにして、引き続き気仙沼市でのお話を。

 

 「釜石の軌跡」という言葉がよく言われた。釜石市ほぼ全部の小・中学生が津波から見事に逃げ切った。その背景には、「津波てんでんこ」を現代風に解釈して8年の長きにわたって熱心に行われた学校の防災教育があった、と。あまり報道されなかったが、気仙沼市も釜石市と同様、市内ほぼ全部の小・中学生が、津波から見事に避難している。その背景には、やはり防災教育があった。
 残念ながら釜石市と同様、気仙沼市も多くの大人が犠牲になった。その数は両市とも千人を超える。ここで強調しておかなければならないのは、両市とも学校の防災教育ばかり行われていたのではなく、市民への防災学習(勉強会や訓練)も盛んにおこなわれていた。従って、市民の防災意識も高かった。ではなぜ大人は多く犠牲者になったのか。
 ここにハザードマップの限界がある。ハザードマップの限界はまた別の機会に書くことにして、気仙沼市の中でも防災意識の非常に高かった地域の悲劇を紹介したい。
 それは気仙沼市の南部に位置する杉ノ下地区でのこと。地震があったので、地区の人々はかねてより決められていた避難場所に避難した。そこは標高15mの高台。どんな津波が来ても大丈夫、と思われていた。そこに18mの津波が押し寄せてきた。結果、93名の方々の命が奪われた。今、そこには「絆」という慰霊碑が建てられて(写真)。亡くなった方々の名前がその裏に刻まれている。
 見て驚いた。なんと93名中38名が「三浦」姓であった。因縁を感じた。
 その杉の下地区の近くに、熱心に防災教育に取り組んでいた市立階上(はしかみ)中学校がある。同級生一人が死亡、二人が行方不明という状況で開かれた、その年の階上中学校の卒業式での卒業生代表梶原裕太君の答辞、今読んでも胸が締め付けられる。目頭が熱くなる。

 

気仙沼市②

写真 杉ノ下地区の丘の上の慰霊碑。裏に犠牲者の名が刻まれている。

93人中38人が三浦姓。

 

 『本日は、未曾有の大震災の傷も癒えない最中、わたくしたちの為に、卒業式を挙行していただきありがとうございます。
ちょうど、十日前の三月十二日、春を思わせる暖かな日でした。わたくしたちは、そのキラキラ光る日差しの中を、希望に胸を膨らませ、通いなれたこの学舎を、五十七名揃って巣立つ筈でした。
 前日の十一日。一足早く渡された、思い出のたくさん詰まったアルバムを開き、十数時間後の卒業式に、思いを馳せた友もいたことでしょう。
 「東日本大震災」と名づけられる、天変地異が起こるとも知らずに・・・
 階上中学校といえば「防災教育」といわれ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていたわたくしたちでした。しかし、自然の猛威の前には、人間の力はあまりにも無力で、わたくしたちから大切なものを、容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というには、むごすぎるものでした。辛くて、悔しくてたまりません。
 時計の針は、十四時四十六分を指したままです。でも、時は確実に流れています。生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。
 命の重さを知るには、大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていく事が、これからの、わたくしたちの使命です。わたくしたちは今、それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。どこにいても、何をしていようとも、この地で、仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます。
 後輩の皆さん、階上中学校で過ごす「あたりまえ」に思える日々や友達が、いかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごして下さい。
 先生方、親身の御指導、ありがとうございました。先生方が、いかにわたくしたちを思って下さっていたか、今になってよく分かります。
 地域の皆さん、これまで様々な御支援をいただき、ありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。
 お父さん、お母さん、家族の皆さん、これからわたくしたちが歩んでいく姿を見守っていて下さい。必ず、よき社会人になります。
 わたくしは、この階上中学校の生徒でいられたことを誇りに思います。
 最後に、本当に、本当に、ありがとうございました。』 

 

 平成二十三年三月二十二日
 第六十四回卒業生代表  梶原 裕太
 (文部科学白書 平成宇22年度より)

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