釜石市②

 東日本大震災、「釜石の奇跡」と言われる一方で、千人を超える市民が津波で亡くなるという「釜石の悲劇」があったということ。
 その最も象徴的なのが、「鵜住居(うのすまい)地区防災センター」(以下防災センターと略す)での出来事。
 2階建ての鉄筋コンクリート造りのこの防災センターへ約200人が避難した。
 もちろん津波ハザードマップでは浸水しないところに建っていた。
 そこへ2階建ての屋上を超える高さの津波が襲ってきた。
 防災センターは津波によって大破。
 屋上の片隅にある機械室の屋根に上った人々約40人がかろうじて死から免れることができた。
 防災センターへ避難した約160人の人々がここで命を落とした。
 ということを前回書いた。

 

 鵜住居地区の津波の避難場所は海岸からずっと内陸に入った山裾にある鵜住神社(うのすみじんじゃ)であった。
 津波は鵜住神社まで到達、鳥居等に多くの被害があった。
 ただ、社殿などの建っている石段を上った高台、すなわち避難場所には津波は到達しなかった。
 ではなぜ多くの市民が地震後、津波避難場所に指定されていた鵜住神社ではなく、この防災センターへ避難したのか。

 

 そもそも鵜住居地区防災センターは、もともとは病院で、防災センターという名前ではあるが、災害対策を行ったり、避難所として使用するのではなく、災害で被災した人たちの医療活動をする場所であったという。
 一方、鵜住居地区の人々はもともと防災意識が高く、防災訓練を自主的によく行っていた。
 東日本大震災の少し前にも防災訓練を行った。
 その災害の対象は津波ではなかった。
 そこで地区の人々は高齢者も多いので避難するのに近い防災センターを使わせて欲しいと市に要望を出した。
 そして市はそれを認めた。
 津波ハザードマップでは防災センターまで津波は来ないことになっていたことも許可をした理由の一つだそうだ。
 このように防災訓練で避難場所として使ったという過去の経験、また防災センターという名前も患いしたと思われる。
 このようなことが重なって、多くの市民が防災センターを目指して避難した。
 そして悲劇が起こった。

 

 今、防災センターの跡地は「釜石祈りのパーク」として、東日本大震災の犠牲者を慰霊、追悼するとともに、震災の教訓を後世に伝える施設として整備されている(図-1)。

 

釜石市②

 

 

釜石市②

 

 写真-1は「東日本大震災慰霊碑」で、震災で犠牲になられた方々の芳名板を設置し、慰霊のための献花台を備える慰霊碑である(写真の手前の黒い壁)。
 このほか「津波高のモニュメント」、震災の記憶を後世に伝えるため、鵜住居駅前地区における津波浸水高(海抜11m)を表すモニュメント(写真の奥の高い所にある黒い壁)や釜石市防災市民憲章の碑(写真右奥の中央に白い線のある黒い壁)も設置されている。

 

 

『釜石市防災市民憲章 命を守る』
釜石市は、2011年3月11 日に発生した東日本大震災により、千人を超(こ)える尊い命を喪(うしな)った。その悲しみが、癒(い)えることは決してない。

 

しかし、古来(こらい)より、先人(せんじん)たちが、度重(たびかさ)なる災害や戦災をたくましく乗り越(こ)えてきたように、今、私たちは、ふるさと復興への途(みち)を歩み続けている。
自然は恵(めぐ)みをもたらし、ときには奪(うば)う。
海、山川と生き、その豊かさを享受(きょうじゅ)してきたこの地で安全に暮らしを続けていくためには、また起こるであろうあらゆる災害に対し、多くの教訓を生かしていかなければならない。
未来の命を守るために、私たちは、後世に継承(けいしょう)する市民総意の誓いをここに掲(かか)げる。
備(そな)える
災害はときと場所を選ばない
避難訓練が命を守る
逃(に)げる
何度でもひとりでも
安全な場所にいちはやく
その勇気はほかの命も救う
戻(もど)らない
一度逃(に)げたら戻(もど)らない戻(もど)らせない
その決断が命をつなぐ
語(かた)り継(つ)ぐ
子どもたちに
自然と共に在るすべての人に
災害から学んだ生き抜(ぬ)く知恵(ちえ)を語(かた)り継(つ)ぐ
私たちは生きる。かけがえのないふるさと釜石に、共に生きる。
制定年月日 平成31年3月11日

 

 「釜石の奇跡」を起こした子供たちが通っていた釜石東中学校、鵜住居小学校の跡地には「釜石鵜住居復興スタジアム」が建設されている(写真―2)。
 ここでワールドカップが開催されたことは、皆さんの記憶にも新しいことと思う。

 

釜石市②

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