その32. 明和の大津波①
先月25日、政府・地震研究推進本部から「日向灘及び南西諸島海溝周辺の地震活動の長期評価」(第二版)が発表されました。
この長期評価は、「日向灘」、「南西諸島周辺」など西日本、奄美諸島、沖縄、台湾へ続く6つの領域の地下で将来起こる可能性のある地震の規模(マグニチュード)と、その発生する確率を示したものです。
この領域の地下ではフィリピン海プレートがユーラシアプレート(大陸プレート)の下に潜り込んでいて、その境界付近で過去繰り返し多くの地震が起こっています。
今回はこの海域で起こった地震で、日本史上でも有数の遡上高(そじょうだか)となった「明和の大津波」についてお話ししたいと思います。
その地震は、1771年4月24日(明和8年3月10日)に発生、震源は石垣島の近海で、マグニチュードは7.4~8.7。
大津波が先島諸島を襲い、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約11,000人、流失家屋約2,000戸という大変な災害となりました。
その津波の遡上高はある資料では二十八丈二尺とあり、現在の高さにすると85.4mというとんでもない高さでした。
少なくとも十数年前の理科年表にはこの数字が載っていました(現在の理科年表には遡上高の記載はありません)。
東日本大震災の後、山口県の地震被害想定を見直すことが決まっていて(その検討委員会の委員長を私が務めました)、津波の被害想定も最悪の場合を想定して行うことが決まっていました。
その時頭をよぎったのが、理科年表の85.4mという数字でした。
そこで、被害想定の検討委員である当時理学部教授で活断層の専門家である金折祐司先生と石垣島を訪問し、85.4mという津波遡上が起こったところがどんな地形なのか見に行くことにしました。
石垣島には津波の痕跡がいまだにいろいろなところに残っていました。
写真は陸に打ち上げられた巨大な石(津波大石(つなみうふいし)です。
人物は金折先生です。
いかにこの石が巨大かお分かりになるかと思います。
一説には、この津波大石は2000年前の津波によるもの、とも言われているようです。
(続く)