その33. 明和の大津波②

 明和の大津波の遡上高が二十八丈二尺(現在の高さにすると85.4m)という記録が残っているので、実際にどのような地形でそのような遡上が起こったのか金折先生と石垣島を車でめぐりました。
 津波が石垣島を襲ったのは島の南東方向からで、島の南東部は海岸から比較的なだらかに標高が高くなっている地形で、良く津波が局所的に遡上するような渓谷のような地形はありません。
 従ってある所だけ極端に津波が遡上することは考えにくい、というのが私たちの判断でした。

 

 島の南東側に標高80mのなだらかな山があり、その中腹に「明和大津波遭難者慰霊之塔」が1983年に建立されています(写真)。

 

その33. 明和の大津波②

 

 この慰霊の塔はここまで津波が来た、という所に建立されたとあり、標高は大体40mです。
 最近の調査資料では津波の遡上高さは30数mであったとみられる、ともあり、85.4mではなかったというのが私たちの結論でした。

 

 ではなぜ2倍以上の差があったのでしょうか?
 それは当時には今のような測量技術はなく、戸板(約90㎝x180㎝)を使って測ったとあります。
 詳細は分かりませんが、海岸から津波の到達地点まで何度も何度も戸板を移動させて測ったのではないかと想像しています。

 

 さて、その慰霊の塔には次のような碑文があります。
 「・・・津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ、・・・遭難死亡者は九三一三人に達した。こうして群島の政治、経済、文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ、加えてその後の凶作、飢饉、伝染病などによる餓死者、病死者も続出して、人口は年年減少の一途をたどり、人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし、その影響はまことに計り難いものがあった。この天災から二一二年、狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき、いまなお断腸の念を禁ずることができない。このたび有志相謀り、群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り、あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し、・・・ここにこの塔を建立した」
 ある資料によると薩摩藩による人頭税の取り立てが非常に厳しかったようで、これが人々の苦しさをさらにひどくしたとのことです。

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