第七十六段:地震活動の長期評価 ~八重山地震と明和の大津波~

 先週は1771年(明和8年)に発生した八重山地震によって引き起こされた巨大津波「明和の大津波」の痕跡が石垣島のいたるところで見られ、陸に打ち上げられた巨大な石(津波大石(つなみうふいし)を紹介しました。
 その津波の遡上高が二十八丈二尺(現在の高さにすると85.4mというとんでもない高さ)という記録が残っているので、実際にどのような地形でそのような遡上が起こったのか金折先生と石垣島を車でめぐりました。

 

 津波が石垣島を襲ったのは島の南東方向からでした。
 島の南東部は空港があるなど、海岸から比較的なだらかに標高が高くなっている地形で、良く津波が局所的に遡上するような渓谷のような地形はありません。
 従ってある所だけ極端に津浪が遡上することは考えにくいのではないかというのが私たちの判断でした。

 

 島の南東側に標高80mのなだらかな山(というより丘といった方がいいでしょう)があります。
 そしてその中腹に「明和大津波遭難者慰霊之塔」が1983年に建立されています(写真)。

 

第七十六段:地震活動の長期評価 ~八重山地震と明和の大津波~

 

 この慰霊の塔はここまで津波が来た、という所に建立されたとあり、標高が大体40mのところにあります。
 最近の調査資料では津波の遡上高さは30数mであったとみられる、とあり、85.4mではなかったというのが私たちの結論でした。

 

 ではなぜ2倍以上の差があったのでしょうか?
 それは当時には今のような測量技術はなく、戸板(3尺x6尺、約90㎝x180㎝)を使って測ったとあります。
 詳細は分かりませんが、海岸から津波の到達地点まで何度も何度も戸板を移動させて測ったのではないかと想像しています。

 

 さて、その慰霊の塔には次のような碑文があります。
 「・・・津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ、・・・遭難死亡者は九三一三人に達した。こうして群島の政治、経済、文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ、加えてその後の凶作、飢饉、伝染病などによる餓死者、病死者も続出して、人口は年年減少の一途をたどり、人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし、その影響はまことに計り難いものがあった。この天災から二一二年、狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき、いまなお断腸の念を禁ずることができない。このたび有志相謀り、群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り、あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し、・・・ここにこの塔を建立した」
 ある資料によると人頭税の取り立てが非常に厳しかったようで、当時の薩摩藩の対応が伺われます。

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