第二百十五段:南海トラフの巨大地震とその時代④
前回は1944年(昭和19年)の東南海地震による被害と国による報道管制について書きました。
国民の戦意を低下させないためや、軍需工場の被害を伏せるため、地震発生の報道は非常に限定的になされ、被害規模やその後の状況などは多くが伏せられました。
しかしながらアメリカはじめ世界は東南海地震の発生ことを知っていたのです。
東南海地震のようなM8クラスの巨大地震による地震波は世界を駆け巡り、世界中で観測されるからです。
ちなみに地球の内部の構造、すなわち核やマントルなどの存在や大きさなどは地震波から求められたのです。
津波も太平洋を横断してハワイやアメリカ大陸の西海岸に到達しています。
いくら日本政府が隠してもダメなんです。
実際、ニューヨークタイムズやワシントンポスト紙は、日本の中部で大地震があったことや、軍需工場が壊滅的打撃を受けたことなどを、大きく報道したそうです。
東南海地震から6日後の12月13日には、80機のB29が名古屋市を空襲、三菱発動機製作所などで、死者330人、焼失487戸を出し、18日には、73機が襲来して、三菱航空機製作所などで死者334人、焼失323戸。
年が明けて1月3日には、78機のB29が来襲、死者70人、3,588戸の民家が焼失、という状況でした。
そして1月7日に三河地震が起こりました。
図はその震央です。
知多半島と渥美半島に囲まれた三河湾の入り口で起こりました。
Mは6.8と東南海地震のM8.1~8.2に比べてかなり小さかったのですが、震源が11㎞と浅く、大変な揺れでした。
最大震度は愛知県の西尾市あたりで7と推定されています。
写真は西尾市の隣の現安城市の被害状況です。
当時は最大震度は6だったので、現在の震度階に換算すると、7という意味で推定となっています。
死者2,306人、行方不明者1,126人、合わせると3,432人。
東南海地震よりもはるかに犠牲者の数は多かったのです。
家屋の全壊7,221戸、半壊1万6,555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4,311戸と記録されています。
東南海地震、B29による空襲、そして三河地震。
そしてその次の年の12月、敗戦直後に今度は四国沖で昭和南海地震(モーメントマグニチュードMw8.4)が起こります。
これでもか、これでもかと日本は痛めつけられるのです。
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