第二百十八段:南海トラフ巨大地震とその時代⑥

 これまで昭和の南海トラフの巨大地震の時代について書きました。
 これからその前の南海トラフの巨大地震とその時代について書きます。

 

 その前の南海トラフの巨大地震は、幕末の1854年12月22日に紀伊半島から東を震わせた「安政東海地震」、その32時間後の23日に紀伊半島から西を震わせた「安政南海地震」になります。
 それらの震央(×印)と震度分布を図に示します。

 

第二百十八段:南海トラフ巨大地震とその時代⑥

 

 表にこの地震前後の出来事をまとめてみました。

 

第二百十八段:南海トラフ巨大地震とその時代⑥

 

 1853年7月8日にペリーが浦賀沖にやって来て、江戸の街は大騒ぎ。
 「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という狂歌は有名ですね。
 上喜撰はお茶の名。
 蒸気船にかけています。
 四盃は四杯。

 

 ペリーから開国を迫られて幕府はその対応に迫られます。
 そんなときに安政東海地震、安政南海地震とマグニチュード8クラスの地震が立て続きに起こり、さらにその1年後の1855年11月には江戸を直下地震が襲います。
 安政江戸地震です。

 

 これらの地震の詳細は次週以降書くことにして、今週はその後のできごとを。 

 

 幕府は黒船騒ぎ、相次ぐ大地震の被害で大混乱に大出費。
 そんな折、井伊直弼が大老となり、いわゆる安政の大獄が始まります。
 すぐに日米修好通商条約が結ばれ、その1年後吉田松陰が処刑され、その4か月後に桜田門外の変が起こっています。
 桜田門外の変が半年早かったら、吉田松陰は生きていて・・・と思ったりします。

 

 伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の5人が国禁を犯して横浜からイギリスのロンドンへ向かったのがその3年後。
 翌年京都御所の蛤御門の内側から薩摩軍、外側から長州軍が鉄砲を撃ち合う禁門の変。
 その時に撃ち合った弾痕は今も蛤御門に残っていて見ることができます。
 その翌年、薩摩藩も19人の若者をやはりロンドンに密航させます。
 2年後の1867年大政奉還、2か月後の1868年1月に王政復古、明治が始まります。

 

 しかしながら鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争へ突入。
 結果は新政府軍の勝利に終わり、名実ともに明治新政府が新しい日本を築くことになります。

 

 しかし、と私は思うのです。
 もしあの3つの地震がなかったら、幕府が勝っていたかもしれないと。

 

 

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