第二十六段:東日本大震災から10年 ~気仙沼市で起こったこと:犠牲と訴訟~
児童、先生計84人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校をはじめとして、東日本大震災のあと各地で訴訟が起こりました。
大川小学校の訴訟のことはまた別の機会に書くことにして、先週書いた気仙沼市杉之下地区を訪れた報道関係者がそこの町内会長さんに聞きました。
「ここは訴訟を起こさないんですか?」
それに対する町内会長さんの答。
「私たちは市と何度も検討を重ね、あの小高い丘の上を避難場所と決めました。責任は市にだけあるわけではありません。市を訴えるということは、私たち自身を訴えることにもなります。ですから訴訟は起こしません。」
町内で多くの住民が亡くなった別の町内会長さんの話。
市の防災危機管理課を訪ねてきて言われたこと。
「確かに私の町内でも多くの住人が津波の犠牲になった。しかしながら市の日ごろの防災啓発活動のお陰で多くの住民があの津波から生き延びることができた。私もこうして生きている。多くの人たちが亡くなったことは非常に残念だが、市には感謝している。亡くなった人たちは市の防災啓発活動に参加していなかった人たちだ」
いずれも震災当時気仙沼市の防災危機管理課長を務めておられた佐藤健一さんから聞いた話です。
佐藤さんの話によると、想定していたことは全て起こったそうです。
それもはるかに想定を超える規模で。
杉之下地区の避難場所から少し遠くを望むと、津波で4階まで被災した「宮城県立気仙沼向陽高校」の校舎が見えます(写真—1)。
写真—1 元宮城県立気仙沼向陽高校の校舎(2020年11月撮影)
現在この校舎は「震災遺構伝承館」(写真—2)として、被災当時そのままの姿で保存されています。
写真—2 震災遺構伝承館の看板(2020年11月撮影)
そしてこの春より佐藤健一さんはその館長として、震災の教訓を語り続けるとのことです。