第二十四段:東日本大震災から10年 ~JAXA衛星データの山口県への誘致きっかけの一言~
東日本震災前、気仙沼市主催の津波に対する備えの研究会に参加していた、また震災の半年前に三陸各地を訪ねて津波の被害を後世に残すために建てられた多くの石碑の写真を撮って回った、と先週書きました。
震災後気仙沼市や三陸のことがずっと気がかりで、一刻も早く訪ねて行きたいと思っていましたが、結局震災後初めて気仙沼市を訪ずれたのはその年の6月でした。
研究会で一緒だった、市の防災危機管理課長(当時)をされていた佐藤健一さんに恐る恐る電話をかけました。
実はそれまで迷惑をかけてはいけないと思い、一切連絡していなかったのです。
佐藤さんの安否も知らずに電話をかけました。
携帯の向こうで元気な佐藤さんの声が聞こえました。
「是非来てください。お話ししたいことがたくさんあります。」
東北新幹線で一関へ。
一関からレンタカーで気仙沼へ。
沿道にはほとんど地震の被害は見られませんでした。
マグニチュード9の地震が襲ったのに、3分程度強い揺れが続いたはずなのに、この被害の少なさは一体どうしてだろう、と不思議で仕方がありませんでした。
気仙沼の市街地に入ると見慣れた街並みが目に入ります。
けっこう古い家も残っていてますます不思議な思いで市役所に近づきます。
様相が一変しました。市役所は少し高い所にあり無事でしたが、そこより低い場所にある家はことごとく破壊されていました。
津波が襲ったところと、そうでないところは、文字通り一線を画して、地獄と天国のようでした。
昼前に市役所に到着、その後佐藤さんは一日かけて市内を案内して下さいました。
その時は既にがれきはかき分けられて工事用の道が数本できていました。
おびただしい数の船が市街地で傾いていました(写真)。
写真 気仙沼市の市街地に流された夥しい数の船
(2011年6月撮影)
ハリウッドのパニック映画を見ているような気分に襲われます。
歌にも歌われた気仙沼港は地盤が沈下し、漁港の岸壁、魚市場周辺は水面下になっていました。
大量の大きなハエが飛んでいました。魚の腐ったような異様なにおいが満ちていました。
市役所に戻り、津波が押し寄せてくる様子を撮影したDVDや各種の資料を基に、被害状況や対応策についてお話を聞きました。
別れ際、佐藤さんの言葉が耳に残っています。
「東北は、私たちが頑張って何とかします。西日本にもいずれ大きな地震がきますね(南海トラフ巨大地震のこと)。先生はこれと同じような悲劇が再び起こらないように、しっかりと準備の研究をして下さい。」
佐藤さんのこの一言が、のちのJAXAの衛星データを山口に誘致することにつながったのです。