第二百段:改めて、南海トラフ巨大地震

 ついに防災徒然日記、二百段を迎えました。
 9月7日には宇部日報社の20周年記念と私の「防災徒然日記」二百段連載の記念も併せて(少しフライイングでしたが)、防災シンポジウムが開催されました。
 会場には250名を超える方に参加して頂きました。

 

 テーマは「南海トラフ巨大地震に備える」ということで、私が前半で講演をさせて頂き、後半は脇宇部日報社会長の進行で、災害現場で様々な経験をお持ちの網木政江さん、山木志仁さん、工藤美佐子さん、弘中秀治さんの4人が様々な体験、活動、そして備えについて意見を交わされました。
 そのシンポジウムに冠を付けて頂いたこと、本当に光栄に思っています。

 

第二百段:改めて、南海トラフ巨大地震

 

 さて、図はそのシンポジウムでもお見せし、防災徒然日記の第八十二段でも使った図ですが、上の写真は昭和21年に起こった昭和南海地震の直後に撮られた高知市の写真です。
 堤防と橋がわずかに見えるだけで、あとは何も見えません。
 一面の海です。
 実は高知市はもともとこんなところだったんですね。

 

 紀貫之の「土佐日記」はご存知のことと思います。
 土佐の国府から京へ帰る道すがらのことを日記に書き記したものですが、その日記を見るとずいぶん時間がかかっているんです。

 

 国府は現在の高知県南国市にあり、船で国府を出立、途中の島々で(今の高知市内。島のつく地名が残っています)宴会を催しては、高知湾の入り口の浦戸(有名な桂浜の近く。小高い山の上には坂本龍馬の像が立っています)に着くまでに一週間もかかっています。
 すなわち紀貫之の時代(930年代)は今の高知市は海だったということになります。

 

 そこで昭和の南海地震と同じような巨大地震がその前に起こったかどうか調べたところ、887年に「仁和の南海・東海地震」(マグニチュード8~8.5)という巨大地震が起こっています。
 その地震のせいで地盤沈下が起こり、紀貫之の時代も海だったのか、あるいはもともと海だったのかはもっと調べなければなりませんが、いずれにしても高知市はそんな土地柄なのです。

 

 次に起こる南海トラフの巨大地震では、高知市は1.5~2m地盤沈下する可能性があると言われています。
 現在(下の写真)の鉄筋コンクリートのビルは耐震設計がされているので、ほとんど建ったままでしょう。
 ただ一階の大部分が海面下になります。
 いわば東洋のベニスになることが考えられます。
 大変な被害が出ます。

 

 私たち山口県民は南海トラフ巨大地震で死傷者を一人も出さず、高知の支援を自分のできる方法でする必要があると改めて思います。

 

 


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