第九段:南海トラフ巨大地震が迫っている ~稲村の火と小泉八雲と濱口梧陵~
前回、津波防災のバイブルと紹介した「稲むらの火」は、原作はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「Living God」で、当時和歌山県の小学校教諭だった中井常蔵先生が日本語に翻訳されたものです。
多分、中井先生の名訳がなければ、これほど「稲むらの火」は有名にはならなかったでしょう。
稲むらの火の舞台は和歌山県の広村、現在の広川町で、対象となった地震は安政元年11月5日(太陽暦では、1854年12月24日)に発生した安政南海地震と先週紹介しましたが、モチーフになった地震そのものは1896年(明治29年)6月15日午後7時半頃起こった「明治三陸地震」だったようです。
実際に三陸地震津波が起こったのは6月で、秋祭りの季節ではなかったのですが、安政南海地震の起こった秋に時期を移して、海水がずーっと沖に引いていく夕暮れの中に、祭りの準備のために灯されている焚火や、稲むらの火を際立たせることで、非常に絵画的な情景の中で物語が進んでいきます。
このあたりが八雲の素晴らしい脚色なんでしょう。それを余すところなく中井先生が翻訳されています。
さて、濱口梧陵(はまぐちごりょう)が村人たちを海岸から遠く離れた神社まで稲むらに火をつけて誘導した、ということは事実で、村人たちが津波から避難した、少し高い場所にあるその神社は今もあります。
広八幡神社と言います。
訪ねて行って宮司さんから直接神社に伝わる当時のお話を聞くこともできました。
濱口梧陵は醤油を商う実業家だったようで、江戸と広村を行ったり来たりしていたようです。
たまたま地元に帰っていた時に地震に会い、機転を利かして村人を救ったわけですが、これだけでもすごい人なのですが、濱口梧陵のもっとすごい所はその後です。
東日本大震災でもそうですが、津波に襲われたところは住む家もなくなり、作物もしばらくはできません。そのままでは村から人が消えてしまいます。
そこで、濱口梧陵は私財を投げうって、村人を雇って津波を防ぐ堤防を作ったのです。今でいう公共工事です。村人たちは村で堤防を作りながら生活を続けることができました。
この堤防は今でもしっかりと残っていて(写真1)、地域の人たちから「梧陵提」と呼ばれ、とても大切にされています。90年後の1944年(昭和19年)の昭和東南海地震、1946年(昭和21年)の昭和南海地震の津波からも広川町を守りました。
写真1 梧陵堤
広川町では毎年11月上旬に「津波祭り」が行われています。100年以上続いています。
この祭りでは、小学校6年生と中学校3年生はまず「梧陵提」の傷んだところを土砂で修理し、その後祭りに参加します(写真2)。
素晴らしい防災教育です。
写真2 津波祭りの様子