第二百十三段:南海トラフの巨大地震とその時代②

 南海トラフの巨大地震がその後の日本の姿をどう変えたか、前回は災害が国の形を変えた典型的な例として、1755年のリスボン大地震について書きました。

 

 今回は1944年(昭和19年)『昭和の東南海地震』、1946年(昭和21年)『昭和の南海地震』のころの日本の状況を書きます。
 まずはそのころの自然災害を。

 

第二百十三段:南海トラフの巨大地震とその時代②

 

第二百十三段:南海トラフの巨大地震とその時代②

 

 表-1に1940年から1946年の間に死者・不明者100人以上を出した風水害を、表-2に死者・不明者100人以上の地震を示します。

 

 まず表-1の風水害ですが、毎年1~2回襲来しています。
 この表は100人以上の死者・不明者に限っていますが、このほか100人に迫る風水害もたくさん起こっています。

 

 特に1942年8月の周防灘台風は山口県の犠牲者が多く、約1000人に上ります。
 そのうち約300人が宇部市です。
 翌1943年も中国地方を大きな台風が襲い、やはり1000人近い犠牲者が出ています。
 1945年9月、すなわち戦後直後我が国を襲った枕崎台風は大変な被害で、特に原爆の被害にあった広島に追い打ちをかけるような台風でした。

 

 表-2は地震です。
 たまたま100人以上の犠牲者を出した地震は、いずれも死者1000人以上に及び、この表の4つの地震は戦中・戦後の4大地震と言われています。
 実際、このころは地震の活動期で、犠牲者数が100人にはなりませんでしたが、西日本各地で犠牲者の出る地震が頻発しています。

 

 戦争直前から戦中、戦後直後はこのように非常に大きな犠牲者の出た自然災害がくり返し、執拗に我が国を襲っています。
 人々は戦争と自然災害という大変な時代を過ごしたことになります。

 

 1944年12月の東南海地震、その2か月後の三河地震は中京地域の軍事工場群を壊滅に追いやりました。
 ミッドウェイ海戦を境に戦況が悪化しましたが、この2つの地震はとどめを刺したと言っていいのではないでしょうか。
 いずれこの被害の様子を書きたいと思います。

 

 そして戦後直後の枕崎台風・阿久根台風、そして1946年の南海地震。
 私が生まれたのが1950年。
 その直前の時代でした。
 祖父母、父母の時代の人々の苦労に思いを馳せると胸が苦しくなります。

 

 

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