第百六十二段:関東大震災から100年⑦その後
関東大震災を契機に大きな変化がたくさんあったと思いますが、その中から防災に関することを2点。
その1。
構造物の耐震設計が本格的に始まりました。
関東大震災の起こった大正末期は、旧来からの木造家屋(民家が主)、また文明開化といわれて西洋式建物の典型としてのレンガ造りのビル、さらには自身の経験のない外国の建設会社が建設した高層ビル、日本の研究者が独自に考案して耐震性を考慮したビルなど、さまざまな建物が混在していました。
写真は東京の丸の内近郊のビルで、左は外国の建設会社による建設中のビルです。
完全に倒壊しています。
右も当時建設中だった日本興業銀行のビルで、当時耐震設計の研究では第一人者だった佐野利器(としたか)に学んだ建築家の内藤多仲(たちゅう)が設計したものです(ふたりとも著名な人です)。
ほとんど無傷でした。
これによって、耐震設計の有効性が証明されました。
話は飛びますが、東日本大震災の被害に遭った東京電力第一原子力発電所は、アメリカの会社の設計で、耐震性、特に津波には配慮がされておらず、取水、排水のためにわざわざ敷地を低くしていました。
しかも構造がブラックボックスでした。
福島第二原子力発電所は日本の耐震技術が取り入れられ、敷地も高くしてありました。
これが明暗を分けた大きな原因の一つです。
あまりマスコミは報道しませんでしたが。
話を戻します。
関東大震災の膨大な建物の被害を教訓に、地震の翌年の大正13年には法令によって、世界で最初に建築物の設計に地震の力が規定されました。
これが戦後になると、全国を対象とした「建築基準法」となり、その後も改定が続けられ、現在の耐震基準につながっています。
その2。
地震そのものの研究も、それまでは地震教室という講座であったのが、大正14年に東京帝国大学(現東京大)に地震研究所が設立され、その後地震学は大きく発展しました。
地震のメカニズム、津波のメカニズム、構造物の破壊のメカニズムなども明らかにされていました。
この「防災徒然日記」でもこれまで取り上げてきた南海トラフの巨大地震や首都直下地震の被害想定、そしてその想定に基づく地震対策もこのような研究成果によるものです。
今年もたくさん災害がありました。
来年は少ないことを祈りながら。