第十五段:阪神・淡路大震災から26年 ~日米都市防災会議:テーマ「次の地震に備えて」のその朝に~
1995年1月17日の未明、激しい揺れで目が覚めました。
大阪のホテルの6階の部屋だったと思います。
それは本当にすごい揺れで、まるで激しい乱気流に巻き込まれた飛行機に乗っているようでした。
日ごろ講義や講演会などで偉そうに言っている自分が地震で怪我をしたら笑われる、などと思いながら、天井や壁から落ちてくるものはないか、倒れてくるものはないか、テレビなど飛んでくるものはないか、身の回りを確認しながら、振り落とされないようにベッドをしっかり掴んで揺れが収まるのを待ちました。
大きな音とともに10~20秒くらい揺れたでしょうか。揺れが収まると何事もなかったようにあたりは静かになりました。窓の外は真っ暗でした。今思えば、停電だったのでしょう。
それまで地震の被害調査に行って被災地で余震に遭ったことはありましたが、こんな激しい揺れは初めてでした。
その3年前の1992年、私たち地震工学や防災を研究している5、60人の研究者がハワイのホノルルに集まっていました。
当時、日本とアメリカの、地震を中心とする防災の研究者が集まって「日米都市防災会議」という研究会を2、3年ごとに定期的に行なっていました。私は日本側の幹事の一人としてその会議に参加していました。
夜、幹事が集まって次の会議の打合せをしました。その時はアメリカ側がホストだったので、次は日本側がホストをする番です。開催地はどこにしようか、という話になったときに、「ぜひ関西でしましょう」と私が言いました。
実は関西では過去に大きな地震が何度も起こっています。有名なところでは秀吉の時代の1586年に起こった「天正大地震」。
秀吉の天下に暗雲をもたらしました。
3,700人以上の犠牲者がでた1948年の福井地震以後、西日本は「地震の静穏期」に入っていて、40年近く大きな地震は起こっていませんでした。
「関西には地震は起こらない」、といったような誤った思い込みが広まっていました。ある都市ではまともに防災訓練もされていませんでしたし、「防災訓練に自衛隊はいらない」、と、今では考えられない風潮もありました。
そのことはみんな専門家ですからよく知っていて、すぐに、「よし、関西でやろう」と決まりました。
1995年1月17~19日の三日間、大阪で。
テーマは「For the Next One(次の地震に備えて)」。
まさにその日米都市防災会議の初日の未明に「The Next One」が起こったのです。
写真 こんなホノルルの夜景を見ながら、1995年の日米都市防災会議のことが決まりました。