第二百十二段:南海トラフの巨大地震とその時代①
前回南海トラフの巨大地震が起こったのが、1944年(昭和19年)12月7日の『昭和の東南海地震』、1946年(昭和21年)12月21日の『昭和の南海地震』で、第2次世界大戦の末期と終戦直後の時代でした。
その前が1854年(安政元年)12月23日に起こった『安政の東海地震』(東南海地震の震源域も一緒に破壊)、およびその32時間後の12月24日に起こった『安政の南海地震』です。
安政の大獄の始まる直前の出来事でした。
さらにその前は、1707年(宝永4年)10月28日に起こった『宝永の南海・東海地震』です。
この地震は南海トラフ全域が破壊したと考えられ、わが国最大級の地震です。
この地震の49日後に富士山が大噴火、今もその時の『宝永の噴火口』を見ることができます。
これら南海トラフで巨大地震が起こると、その時代の背景も重なって、日本の姿が大きく変わっています。
これから数回にわたってこの国がどう変わったかを見て行きたいと思います。
その前に、地震・津波災害で国の様子が大きく変わった例を紹介します。
1755年11月1日にポルトガルを襲った『リスボン大地震』です。
震源はポルトガルの大西洋に張り出しているサン・ビセンテ岬の西南西約200㎞の海底、地震の規模であるモーメントマグニチュードMwは8.5~9と言われ、東日本大震災級の巨大地震でした。
当時のリスボンの人口は約27万5千人。
地震のあと襲った津波と大火で、リスボンの街はほとんど壊滅。
約9万人が亡くなったともいわれています。
今もその地震の被害を物語る壊れた教会も残っています。
安土・桃山時代から徳川時代の初頭にかけて、我が国を多くのスペイン、ポルトガルのキリスト教宣教師が訪れています。
当時の世界はユーラシア大陸、アフリカ大陸はポルトガルの勢力圏で、南北アメリカ大陸、太平洋はスペインの勢力圏に二分されていました。
日本はその境界線上にあり、したがって、彼らは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に謁見し、勢力の拡大を図っていました。
それから約150年、大きな地震がリスボンを襲い、スペインと世界の覇権を争っていたポルトガルは、この地震で一気に衰退の道を進むことになります。
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