第百五十九段:関東大震災から100年④情報とデマ

 関東大震災では、電柱が倒れ、電線が切れ、電話や電報の通信手段がほとんど寸断しました。
 このため被災地からの正確な情報が全く入らず、被災者や避難者の安否確認が非常に困難となりました。
 当然ながら、政府や行政の対応もほとんどできず、初動対応の不備や組織の混乱があり、通信だけでなく道路、鉄道などの交通インフラも壊滅的な状況で、被災地域に十分な人的、物的な支援が届きませんでした。
 すなわち被災者への食料や医薬品などの救援物資の効率的な調達や配布が難航しました。

 

 また、一部の地域で水源が汚染したため、飲料水、生活水が不足。飲料水の不足からくる脱水症状や水源の汚染による病気も急増、さらには医薬品や医療機器の不足などにより、被災地域では怪我や病気に苦しむ人々が適切な医療を受けることが困難になって、結果的に死者数を増加させることとなりました。
 2016年4月に起こった熊本地震で注目された災害関連死で非常に多くの人が命を落としたわけです。

 

 情報の途絶が大きな悲劇も生みました。
 「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」や「朝鮮人が放火した」などのデマが流れ、そのデマを信じた官憲や自警団などが非常に多くの朝鮮人や共産主義者を虐殺ということが起こりました。

 

第百五十九段:関東大震災から100年④情報とデマ

 

 図は、当時の新聞です。
 マスコミも加担していたことが分かります。
 推定される犠牲者数には数百名~約6000名と非常に大きな差があり、正確な犠牲者数は不明ということです。
 このことからも当時の混乱ぶりがうかがえます。

 

 このような悲劇が起こった社会的背景としては、1910年(明治43年)に日本は「韓国併合に関する条約」を締結、これを機に多くの人が朝鮮半島から日本にやって来て、日本人が朝鮮半島に渡りました。
 仕事のことなど、必ずしも両国民の間がうまくいったわけではなく、お互いに不信感が醸成されていたようです。
 1919年(大正8年)に朝鮮半島で「三・一独立運動」がおこり、相互不信感や憎悪感がますます増幅、そのような中で起こった大震災で、不信感や憎悪感が一気に爆発、政治的思想もぐちゃぐちゃになり、悲劇が起こったようです。
 災害時には正確な情報が命に直結することをこれらのことは物語っています。
 (参考:吉村昭:「関東大震災」、文春文庫、Wikipedia ‐ 関東大震災朝鮮人虐殺事件 -)

 

 


トップへ戻る