第十六段:阪神・淡路大震災から26年 ~衝撃的な景色:パニック映画のシーンを彷彿~
1995年1月17日の未明、激しい揺れで目が覚めました。
揺れが収まるとすぐテレビのNHKにスイッチを入れました。
阪神地方で激しい地震が起こったという第一報があったのち、しばらくは詳しい情報は報道されなかったのではないかと記憶しています。
そのうち朝の7時過ぎになり、朝食の時間がやってきました。一階のレストランに行こうと思ったら、エレベーターは動いていませんでした。
激しい揺れが原因だったのでしょう。
仕方ないので階段を降りていきます。
途中、顔見知りのアメリカ側の参加者と会います。
「日本サイドはなかなかアジな歓迎をしてくれるね。」
とか、
「Wake up callにしては、ちょっと揺れが強すぎたね。」
などとアメリカ人得意のジョークを飛ばしながら笑顔で挨拶を交わします。
開会式は8時半から予定通り開催。
実は関西にもいずれ大きな地震がやってくる、ということで、京都大学防災研究所が中心となって行政や関西電力、大阪ガスなどライフライン企業の協力の基に、地震計の設置、すなわち地震観測ネットワークの構築が関西で進んでいました。
その最初の観測記録の報告がその開会式でありました。
10時からは一般の人700人参加の「For the Next One」をテーマにしたシンポジウムが予定されていました。
私は会場係としてシンポジウム会場の入り口で待機していました。が、開催時刻になっても誰も来ません。
それもそのはず、大阪もバス、鉄道、地下鉄など交通網は完全にストップしていたのです(あとから分かりました)。
しばらくするとテレビ局や新聞社など報道関係者が駆けつけてきました。
さすが報道機関、日米の都市防災関係の研究者がそのホテルに集まっている、ということを知って駆けつけてきたのです。すごいな、と思いました。
ただこれもあとから気が付いたのですが、そのシンポジウム開催のことは報道機関に事前に知らせていたのです。
会場係の私に記者たちは、「だれか紹介してください」、と言います。そこで片っ端から参加している日本とアメリカの先生をペアーに、次々に報道機関に紹介しました。すぐに記者たちは先生たちと出かけて行きました。
そのころ神戸が大変ということを知りました。
幹事の私たちはホテルに残ってテレビをずっと見ていました。昼頃には死者・行方不明者が100人くらいになった、夕方には1,000人を超えた、という報道がなされ、これは大変なことになった、と、今もその時の衝撃を覚えています。
そのうち、高速道路が倒壊した、という話も入ってきました。
「高速道路が倒壊? いったいどういうことや?」
みんなが声に出しました。大きく報道され一躍有名になった阪神高速道路の800mにわたる高架橋の倒壊です(写真)。
これには日米で後日談があります。
写真 倒壊した阪神高速道路の高架橋(神戸新聞撮影)