第二百十四段:南海トラフの巨大地震とその時代③
新年明けましておめでとうございます。
昨年は元日から能登半島地震、二日は羽田空港での衝突事故と衝撃的な年明けでした。
8月8日には日向灘でも地震が起こり、初めて南海トラフ巨大地震臨時情報が出されました。
また各地を暴風雨が襲い、9月にはこともあろうに地震被害からの復旧が本格化したところの能登半島を豪雨が襲いました。
何が起こるかわからない、ということを実感した1年でした。
今年は災害が起こらないことを祈るばかりですが、そうもいかない、災害多発時代のこの頃です。
しっかりと備えましょう。
さて、南海トラフ巨大地震とその時代、今回は昭和19年に起きた昭和東南海地震について書きます。
この地震が日本の敗戦を加速させたことは前回書きました。
1944年12月7日に起きたこの地震、マグニチュードMwは8.1~8.2。
揺れの継続時間は95秒。
最大震度は愛知県西尾市、静岡県菊川市、袋井市などで7と想定されています。
実は震度7は1948年に起こった福井地震の後に設定されて、1944年当時は震度0~6の7段階でした。
非常に広い範囲が当時の震度6でした。
死者・不明者は1,223人、負傷者は2,864人、津波による流失家屋:3,129戸、浸水家屋:8,816戸、焼失家屋:3,129戸、火災発生:26箇所などとなっています。
地震によって東海道本線が大変な被害に遭い、戦争中で長距離を移動するのも制約があり、食料も不足といった非常に厳しい中でも当時の東京帝国大学、名古屋帝国大学、名古屋地方気象台、中央気象台の先生や職員の皆さんが必死に調査し、その記録を残しています。
先生方や職員の方々には頭が下がります。
ただ報道規制があり、その記録が公表されるまでには時間がかかりました。
中には30年後に公表された記録もあります。
新聞も報道規制の対象でした。
1945年3月末までに掲載された記事数は、朝日新聞が22件、読売報知新聞が12件、地元中部日本新聞は99件でした。
非常に少ないことが分かります。
当時の新聞の震災報道の特徴としては、
①震災報道は基本的に最終面(全2面中2面)に報道された。
②記事の大きさはベタ記事(新聞紙面の下方にある一段見出しの記事)が主流であり、4分の1ページ以上の記事にはほとんどならなかった。
③数値で表されるような詳細な被害情報は報道されずに、「被害微小」というあいまいかつ事実に反した報道がなされた。
ということです。(内閣府:災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成19年3月 1944 東南海地震・1945 三河地震参照)
こうして一般の国民にはその真の姿は知らされることはありませんでした。
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