第二百十六段:南海トラフの巨大地震とその時代⑤

 1944年(昭和19年)の東南海地震、相次ぐ空襲、そして三河地震。
 多くの人が命を落とし、多くの家が壊れ、津波で流され、焼け落ちました。

 

 B29による空襲は全国に広がり、ここ宇部も4月から8月にかけて8回にわたる空襲で焼け野原になり、約300人の方が亡くなりました。
 そして広島、長崎に原爆投下、終戦を迎えます。

 

 それから1ヶ月後の9月中旬、今度は枕崎台風がわが国を襲います。
 最低気圧は865hPa、上陸した枕崎で観測された最低気圧は916.1hPa、最大瞬間風速は宮崎県細島灯台で75.5m/sというとんでもない台風でした。

 

 枕崎に上陸後は北海道を除く日本全土を縦断、各地で吹き荒れ、死者・不明者は3,750人を超え、特に広島県は死者・不明者が2,000人と、原爆の惨禍に追い打ちを掛けたのです。

 

 それから1年半もたたない1946年(昭和21年)12月21日の午前4時、今度は紀伊半島の潮岬沖を震源とする昭和南海地震(Mw8.4)が起こりました。
 2年前の東南海地震が紀伊半島から東側の震源域が動いたのに対して、今度は西側、四国沖の震源域が動きました。

 

 この地震で西日本は揺れにより大きな被害を受け、太平洋沿岸では大きな津波による被害を受けました。
 死者・不明者約1,450人、負傷者約2,600人と言われています。

 

第二百十六段:南海トラフの巨大地震とその時代⑤

 

 写真はその象徴的なもので、高知市が水没した様子です。

 

 強くて長い揺れによって高知市街地の木造家屋はことごとく倒壊し、そこに津波がやって来て瓦礫と化した家屋を洗い流し、地震と共に起こった1m以上の地盤沈下によって海水が市街地に流れ込み、高知市は一面海と化したのです。

 

 昭和の東南海地震と南海地震の時代は、敗戦があり、台風が襲うという、どう表現していいか分からないほど過酷な時代でした。
 よく祖父母の、そして父母の世代が私たちに命をつないでくれた、と思うのです。

 

 過去の災害の規模を単に犠牲者数だけで考えてはいけないと思います。
 犠牲者になるということはその人の人生が終わるということです。
 犠牲者はゼロにしなければいけない、と思うのです。

 

 戦争で、そして災害で決して命を落としてはいけない、そのための備えはしっかりとしなければいけない、と、明日阪神・淡路大震災から30年を迎えるにあたって改めて強く思います。

 

 

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