第百六十段:関東大震災から100年⑤大森と今村の論争

 関東大震災では、大規模な火災、社会インフラの壊滅、さらには情報の遮断でデマなど社会の混乱が発生、結果として10万5千人もの多くの人の命が奪われました。
 実は、関東大震災の発生を予測し、備えるように警鐘を鳴らした人がいます。

 

第百六十段:関東大震災から100年⑤大森と今村の論争

 

 当時東京帝国大学地震学教室の今村明恒助教授です(写真-1)。
 今村助教授は、過去に江戸で起こった被害地震を詳細に研究して、1905 年(明治38 年)に雑誌「太陽」9月号に次のような記事を掲載しました。
 江戸では、平均的に100 年に1回の割合で大きな地震が発生している、慶安二年(1649年)の地震と元禄十六年(1703年)の地震の間は54 年である、安政二年(1855年)の地震から50 年を経過している、したがって、震災予防に一日も猶予はない、と。

 

 また、東京における地震の際に引き起こされる火災の恐ろしさを指摘しています。
 この記事はあまり話題になりませんでしたが、年が明け、東京二六新聞がセンセーショナルに記事を掲載。
 そして2月に東京湾に大きな地震が発生。
 このため人々は大きな不安におちいりました。
 そこに流言等も飛び交い大きな騒動になったのです。

 

 それがあまりに社会的に大きな騒動となってしまったため、東京帝国大学地震学教室の大森房吉教授(写真-2)は、その年の雑誌「太陽」の3月号で、今村助教授の説を根拠の薄い”浮説”であると説き、厳しい言葉で今村助教授の説を否定し、騒動を沈めました。

 

第百六十段:関東大震災から100年⑤大森と今村の論争

 

 その18年後の1923年、大森教授がオーストラリアに出張中、偶然にもシドニーのリバビュー天文台を訪問中、地震計に大きな地震が記録されているのを見ました。
 大森教授はこの地震が日本で発生した大地震であることを直感、帰国の途につきます。

 

 大森教授はオーストラリア滞在中に脳腫瘍の病状が悪化し、帰国後1か月後に亡くなります。
 死の直前、後を今村助教授に託します。
 今村助教授は亡くなった大森教授の後を継いで地震学講座の教授に昇進します。

 

 当時日本は今と同じように地震の活動期で、1925年に北但馬地震(死傷者約1500人)、1927年に北丹後地震(死者不明者約2900人)などが相次いで発生し、次の大地震は南海トラフの地震と考えた今村教授は、これを監視するために1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立します。
 今村教授の予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生。
 東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだとのことです。
 今村教授はその後も地震の研究と地震防災に生涯尽くしました。
 参考:藤原尊禮著、地震学百年、東京大学出版会

 

 


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