第九十四段:札幌でのひと夏②
引き続き札幌での話を。
この年1972年は冬季オリンピックが札幌で開催され、まだ街のいたるところにその余韻が残っていました。
尻もちをついても笑顔で演技を続け、見事銅メダルに輝いたフィギア・スケートのジャネット・リン。
愛くるしい笑顔のポスターが沢山ありました。
70m級で金、銀、銅を独占した笠谷選手をはじめとする日本ジャンプ陣の写真も。
朝起きると徒歩で中の島にある(あの中の島ブルースの舞台です)北海道開発局の研究室へ。
毎日毎日石狩川の模型に洪水を起こしていました。
夜は時々繁華街のススキノ、たまにサッポロビール園へ。
ジンギスカンをよく食べました。
ある日、大学のサークルのU先輩が訪ねて来ました。
高校まで甲子園を夢見た野球少年の私でしたが、大学に入学、これからは英語が使えなくては、と方向転換。
ESS(English Speaking Society)へ入部。
1年生の時に農学部の4年生だったそのU先輩に大変お世話になりました。
「大雪山のクマと相撲を取りに来た」
と訳の分からないことをU先輩は言いながら一緒にススキノへ。
優秀なU先輩はその時京都大学の大学院へ進学。
「三浦君も京都へ来んか?」
「はい、行きます」
ススキノの飲み屋での酔っ払い二人のこの会話が、私の人生を大きく変えることになりました。
9月に入り、改めて京都大学に先輩を訪ねて行きました。
先輩の所属する食料科学研究所は宇治の黄檗(おうばく、万福寺で有名)にあります。
「三浦君、ここには土木系の防災研究所もあるよ」
U先輩に防災研究所の図書館に案内してもらいました。
そこには山口大学の講義で使っていた教科書を書いている先生たちの名前がありました。
そして何よりも防災研究所の建物がものすごく大きく(山大工学部の本館も結構大きいですが)、その大きさにびっくりして、
「あ、ここで研究したい」
と思ったのです。(写真)
あそこで研究をするんだ、と防災研究所の建物を思い浮かべながら、大学院へ入るために真面目に勉強をはじめました。
ただ白状しますと、何を研究するかはまだ決めていなかったんです。
後に地震工学を研究することになるのですが、その後素晴らしい先生たちとの出会いがあり、結果的にそうなったのです。
いい加減と言えばいい加減です。