第二十五段:東日本大震災から10年 ~気仙沼市で起こったこと:杉之下地区~
気仙沼市の震災当時の防災危機管理課長佐藤健一さんの一言が、のちにJAXAの衛星データを山口に誘致するきっかけになった、と前回の終わり書きましたが、その話は別の機会に譲ることにして、引き続き気仙沼市でのお話を。
「釜石の軌跡」という言葉がよく言われました。
釜石市ほぼ全部の小・中学生が津波から見事に逃げ切りました。
その背景には学校の防災教育がありました。
その一方で、大人は1000人を超える犠牲者がでました。
「釜石の悲劇」と言われています。
あまり報道されませんでしたが、気仙沼市も釜石市と同様、市内ほぼ全部の小・中学生が津波から見事に避難しています。
その背景にはやはり学校の防災教育がありました。
一方、気仙沼市も釜石市と同様に残念ながら1000人を超える大人の犠牲者がでました。
ここで強調しておかなければならないのは、両市とも学校の防災教育ばかりが行われていたのではなく、市によって市民への防災学習(勉強会や訓練)も盛んにおこなわれていたことです。
従って、市民の防災意識も高かったわけです。
ではなぜ大人には多くの犠牲者がでたのでしょうか。
ここにハザードマップの限界があるのです。
ハザードマップの限界や前提条件等については、このシリーズの前に、昨年のゴールデンウィーク明けから「ハザードマップを読む」というタイトルで20回にわたって書きました。
(宇部日報を読み返すことができない人は私のホームページ(https://dma-fmiura.com/category5.html)にもありますので、是非お読みください。)
さて、話を気仙沼市に戻して、市の南部に位置する杉ノ下地区でのことです。
地震が起こったので地区の人々はかねてより決めていた避難場所に避難しました。
そこは標高15mの高台。
どんな津波が来ても大丈夫、と思われていました。
そこに18mの津波が押し寄せてきたのです。
結果、93名の方々が亡くなりました。今、そこには「絆」という慰霊碑が建てられて(写真1)、亡くなった方々の名前がその裏に刻まれています。
写真1 気仙沼市杉の下地区に建立された慰霊碑「絆」
(2017年7月撮影)
見て驚きました。
なんと93名中38名が「三浦」姓だったのです。
因縁を感じました。
今はこの慰霊碑の横に標高20mを超える避難場所が作られています(写真2)。
写真2 慰霊碑の横に築造された避難場所
(2020年11月撮影)