第二百三十三段:南海トラフの巨大地震とその時代⑲富士山噴火
宝永地震の49日後に富士山が大噴火を起こしています。
その痕跡は今も「宝永の噴火口」として見ることができます。
富士山の「宝永噴火」は、1707年12月16日から始まり1月1日まで続きました。
噴火の1か月前くらいから盛んに火山性の地震が起こり、特に噴火前日から始まった群発地震はどんどん有感範囲を広げて行きました。
大量の火山灰が噴き出たのが特徴で、近郊の村では3m、冬の季節特有の強い東風で遠く関東平野にまで降灰は広がり、江戸でも数㎝積もりました。
富士山の周辺では、大量の火山灰で家屋の倒壊や農地が埋まり、流れ出した灰による土砂災害や洪水が長期間にわたり続きました。
その対応は被災地を領有する領主(大名や旗本)だけでは対応ができず、江戸幕府は以下の災害対応事業を行っています。
①被災地を幕府の直轄地に編入し、幕府の代官による被災民救済を一括して実行。
②幕府の財政そのものも厳しかったので、全国の大名に対して「高役金」を全国民に対して課して、復興資金を調達。この「高役金」は今の「特別復興税」に相当するものでしょうか。
③治水工事を外様大名らのお手伝い普請(工事)とする。
これらはわが国初めての国家規模の復興事業でした。
それはそれで非常に意義のあることですが、その前の宝永の大地震に続く災害対応で、幕府の財政をますます悪化させることになりました。
噴火の9年後(1716年)、8代将軍吉宗が登場します。
吉宗は質素倹約、尚武(しょうぶ:武道や軍事を大切なものと考えること)で有名な「享保の改革」を推し進めます。
この改革は宝永地震、富士山の宝永大噴火で困窮している幕府の財政を立て直す、という意味があったと考えられます。
享保の改革は単に質素倹約を進めるだけでなく、地震や噴火の被災地の復興も進めています。
その中で、今でいう所の減税に当たる政策も取り入れて、無理と思われた被災地の復興も成し遂げています。
(中央防災会議:災害教訓の継承に関する専門調査会、1707肘さん宝永噴火報告書を参考にしました)