第二百二十一段:南海トラフ巨大地震とその時代⑨安政南海地震(1)
安政東海地震の約32時間後の1854年12月24日午後4時過ぎ、今度は紀伊半島から西の四国沖で、やはりマグニチュード8.4の巨大地震が起こりました。
安政南海地震です。
皆さんの中には「稲むらの火」という物語をご存じの方もいらっしゃると思います。
以下にざっとそのあらすじを。
「海辺の村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震の揺れを感じた。
『これはただ事ではない』と眼下の海を見ると、海水が沖合へ退いていくのが見える。
津波が襲って来るに違いない。
海岸近くで祭りの準備に忙しい村人たちはそれに気が付かない。
村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。
その火を火事と思って、火を消すために村人たちは高台に駆け上った。
その時津波が襲ってきて、少し前まで村人がいた場所は全てが津波にさらわれてしまう。
五兵衛の機転によって村人たちはみな津波から守られた。」
この物語を書いたのは小泉八雲、ラフカディオ・ハーンで、「A Living God」という英文でした。
物語に出てくる庄屋の五兵衛は実在の人物がモデルになっています。
現在の和歌山県広川町(当時は広村)に住んでいた濱口梧陵(ごりょう)がその人で(図-1)、梧陵は醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)の七代目の当主。
江戸に行ったり来たりの実業家で、勝海舟とも親交があり、咸臨丸で一緒にアメリカに行こうと誘われるものの、その時は事情があり同行は叶わず、後に渡米、そこで病気になり帰らぬ人となりました(広川町広八幡神社の石碑より)。
さて、1854年12月24日の安政南海地震当日、梧陵は広村にいました。
地震による津波が広村に襲来したとき、梧陵は自身の田にあった藁(わら)の山に火をつけて避難路を示す明かりとし、村人を安全な高台にある広八幡神社へと誘導しました。
結果として村人の9割以上を救ったということです。
梧陵のすごいところは、次の地震津波に備えて、私財をなげうって堤防を築いたことです(梧陵堤)。
そのままでは村人がいなくなってしまう、それを防ぐために、村人に堤防建設の仕事を作って、いわば公共事業を個人で行ったのです。
その堤防は今もしっかりと残っていて(写真-1)、1946年の昭和南海地震から村を守りました。