第二百二十三段:南海トラフ巨大地震とその時代⑪安政江戸地震(1)
徳川御三家といえば、尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家です。
尾張徳川家は安政東海地震の被害を受け、紀伊徳川家はその32時間後に起こった安政南海地震の被害を受けました。
しかし水戸徳川家はこれら両南海トラフ巨大地震の被害をそれほど受けませんでした。
しかしながら翌1855年11月11日午後10時頃、M7.0~7.1の地震が江戸を襲いました。
震源は今の東京都江東区付近で、いわゆる首都直下地震でした。(図-1)
理科年表によると、地震後30余カ所から出火しましたが、幸い朝から小雨で風も静かという幸運に恵まれ焼失面積は2.2㎞2にとどまったようです。
一部には1.5㎞2という説もあり、いずれにしても火事の延焼は1923年9月1日に起こった関東大震災ほどではなかったようです。
それでも江戸町方(庶民の住んでいる地域)の被害は、潰れ焼失1万4千余軒、そして死者4,000余とあります。
一方の旗本・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受け、死者約2,600人、周辺の死者も含めると約1万人にも及んだようです。(図-2)
そんな中、小石川の水戸藩藩邸が倒壊、水戸藩の重臣が多く死亡しました。
指導者を失った水戸藩は内部抗争が激化、安政7年(1860年)の桜田門外の変へとつながったと言われています。
江戸城や幕閣らの屋敷も大被害を受け、将軍家定は一時的に吹上御庭に避難するほどでした。
江戸幕府は前年の安政東海・南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられ、アメリカやロシアなどとの外交交渉など多難な時局に加えて財政悪化を深刻化させました。
もしこの安政江戸地震が起こらなければ桜田門外の変は起こらなかった可能性があります。
そしてそもそも厳しく思想や行動を取り締まる安政の大獄もなかったかもしれないと思ったりします。
弱体化した幕府に対して、長州や薩摩はほとんど地震の被害を受けていません。
元気な長州・薩摩が息絶え絶えの幕府にとどめを刺した、とは言い過ぎかもしれませんが、地震によって日本の歴史は大きく変わったのではないかと思ったりします。