第二百二十二段:南海トラフ巨大地震とその時代⑩安政南海地震(2)

 和歌山県広川町では、梧陵堤(現在は広村堤防と呼ばれているようです)を築いた濱口梧陵の偉業や恩徳を偲ぶことで、災害のことを忘れないようにと、毎年安政南海地震の津波が襲ってきた11月5日に「津波祭り」が開催されます。

 

 この祭りは、安政の津波から50年目を迎えた明治36年(1903)に始まり、今日まで続いています。
 津波が襲ってきたのは太陽暦では12月24日ですが、旧暦では11月5日だったことから、今も11月5日に行われています。

 

 祭りの前日、人々は広村堤防や周辺を清掃して準備し、当日は堤防への土盛りと、感恩碑前で式典が行なわれます。
 この祭りには災害のことを忘れずに、防災の精神を次世代へ伝えていくために、広小学校の6年生と耐久中学校の3年生も参加しています(写真)。

 

第二百二十二段:南海トラフ巨大地震とその時代⑩安政南海地震(2)

 

 この11月5日は2015年12月の国連総会で「世界津波の日」に制定されました。
 ちなみに津波は英語でも「Tsunami」(発音はツナーミ、でナにアクセントがあります)と国際語になっています。

 

 さて、この安政南海地震、Mw8.7 と極めて大きな地震で、津波は紀伊水道、土佐湾で非常に高く、最も高いところ(高知県中土佐町久礼)で16mにも達しました。
 犠牲者は数千人となっていますが、紀伊半島から東の三重県、愛知県では32時間前の安政東海地震による被災者との区別がつかず、また逆に紀伊半島から西の四国や九州では2日後に豊予海峡で起こったM7.4の豊予海峡地震の被災者との区別がつかず、実態はよく分かっていないようです。(Wikipedia:安政南海地震より)

 

 この津波は大阪湾にも押し寄せ、大阪市は大変な被害を受けています。
 津波そのものの高さは天保山(安治川河口付近)で1.6~1.9m、市内を流れる塩尻川、木津川、道頓堀川でも1m程度に対して、地盤高は2m程度あり、津波の浸水による被害はほとんどなかったようです。
 その一方で、河口付近に停泊していた多くの船が津波で川の上流へと運ばれ、次々と橋を壊し、これによって市内だけで200人以上、周辺も入れると600人以上の犠牲者が出たと記録されています。(内閣府、災害教訓の継承に関する専門調査会報告書、1854年安政東海地震・安政南海地震より)

 

 実は大阪はこれと同じような被害が過去にも起こっており、1707年の宝永の地震の時は安政の地震の時よりもっと多くの橋が津波によって運ばれた船によって壊されています。
 次の南海トラフ巨大地震でも同様の被害が考えられます。

 

 

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