第二百二十五段:南海トラフ巨大地震とその時代⑭宝永地震(1)

 幕末の1854年に起こった安政東海地震、安政南海地震の一つ前の南海トラフの巨大地震は1707年の宝永地震です。

 

 理科年表(2023年版)によると、発生は1707年10月28日(宝永4年10月4日)マグニチュードは8.6、わが国最大級の地震の一つ。
 全体で確かな死5千余、倒壊家屋5万9千、流出家屋1万8千。
 震害は東海道・伊勢湾沿岸・紀伊半島で最もひどく、津波が伊豆半島から九州までの太平洋沿岸や、瀬戸内海を襲った。
 津波の被害は土佐が最大。
 室戸・串本・御前崎で1~2m隆起し、高知の市街地約20㎢が最大2m沈下した。
 遠州灘沖から四国沖までの南海トラフ沿いの広範囲を震源とする巨大地震。
 11月23日に富士山が大爆発し、宝永火口を作った、とあります。

 

 室戸・串本・御前崎など岬の隆起と高知市の地盤沈下はその後の南海トラフ巨大地震でも起こっています。
 宝永の富士山噴火はまた改めて書くことにして、宇佐美龍夫著、新編・日本被害地震総覧によると、この宝永南海地震の翌日、甲斐を中心に大きな余震があり、これらの地震で少なくとも死者2万余、流出家屋約2万、倒壊・流出家屋約6万、船の流破3,000余、田畑の被害30万石以上と思われる、とあります。

 

 津波の高さは、高知市種崎、須崎市で23m、中土佐市久礼で24~26m(Wikipedia宝永地震より)などと、高知県では20mを超えるところが広く分布しています。
 津波による流出家屋約2万、田畑の被害30万石というのも納得がいきます。
 30万石と言えば一つの大名の石高に相当します。
 ちなみに長州藩(毛利藩)の幕末の石高は約37万石となっています(Wikipedia石高)。

 

第二百二十五段:南海トラフ巨大地震とその時代⑭宝永地震(1)

 

 なお、図に示す東海、東南海、南海地震、日向灘を含む、東日本大震災の後に次の南海トラフ巨大地震の震源域を決めるのに、この宝永地震の震源域が大いに参考になっています。

 

 実は、宝永地震の4年前、1703年12月31日(元禄16年、11月23日)、元禄文化にとどめを刺すような地震が関東を襲っています。
 1923年の関東地震の一つ前のM8クラスの地震で、元禄地震がそれです。

 

 死者は約6,700人、倒壊・流出家屋は2万8,000軒(新編・日本被害地震総覧)。
 この元禄地震が年号を宝永に変えるきっかけになったのですが、宝永ではその規模を上回る地震がおこり、富士山まで噴火し江戸の町も降灰で大変な被害が生じます。
 江戸幕府が始まって約100年、幕府は踏んだり蹴ったりのひどい目に合うのです。

 

 

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