第二百三十九段:南海トラフ巨大地震とその時代21

 第二百三十段、南海トラフの巨大地震とその時代⑳で、1586年の天正地震で岐阜県にある大垣城が倒壊・全焼して、秀吉が家康を攻めるのをあきらめた、という話を紹介しましたが、もう一度その話を。

 

 この6月15、16日、名古屋への出張があったので、大垣城を訪れました。
 大垣城はJR大垣駅のすぐ南に位置し、東に揖斐川、西に杭瀬川に挟まれた平地で、城周辺にも複雑に堀がめぐらせてあります。
 ですから訪れる前は城は低い平地にあり、地下水位も高く、倒壊の原因は液状化と想像していました。
 ところが実際は城のある所は小高い丘になっていて(写真)、液状化が起こるような所ではありませんでした。

 

第二百三十九段:南海トラフ巨大地震とその時代21

 

 したがって、激しい揺れで倒壊、そして炎上したものと思われます。
 ちなみに大垣城のある独立峯のような小高い丘は、その先端(頂上)に地震のエネルギーが集中してよく揺れることが分かっています

 

 大垣城を訪れ、天正地震と大垣城のことを書いた資料はないか受付で尋ねたところ、受付の女性は大変親切にいろいろと調べたり、郷土館に問い合わせをしたりして、坂東肇著:「大垣の城館めぐり」という本を見つけて下さいました。
 早速郷土館にてその本を購入。
 その128~129頁に、秀吉から当時大垣城にいた家臣、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)にあてた書状の紹介がありました。

 

 その書状の坂東氏の現代語訳の一部を引用します。

 

「これは、秀吉が直末に対して、大垣城に兵糧米を五千俵入れておけという命令である。
~略~、秀吉は、家康を攻撃するために、準備を万端に整えていたのである。
秀吉方の兵力は約10万、それに対して家康方は、せいぜい三~四万であった。
秀吉としては、家康を一気につぶすつもりで準備をしていたのである。
しかしその戦いは起きなかった。
家康は、幸運にも命拾いしたのである。
それは何故か。
天正13年11月2日夜に、天正の大地震が起きたからである。
大垣城は兵糧米とともに焼け落ち、先鋒隊で活躍するはずの山内一豊の長浜城も全壊してしまった。
家康との対決どころではなくなったのである。」

 

 天正の大地震がなければ、家康は滅ぼされ、江戸時代はなかった、そして日本の歴史は大きく変わっていたのです

 

 

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